社会の底辺と呼ばれてたけど保育園経営してみる

中学校を退学、色々あって海外の大学を卒業、今は保育士

偏見か、人種差別か

白人警官に押さえつけられた後に黒人男性が死亡した事件を発端に、

世界中で人種差別に反対する運動が巻き起こっている。

 

私がアメリカにいたのは10年以上前。

都市部で色んな人種が混在していて、黒人が差別的な扱いをされている印象はなかった。

 

それでもやはりステレオタイプ(偏見)があるのは仕方なくて、

一度車で迷ってサウスセントラルという治安の悪い地域に入ってしまった事があるが、深夜にも関わらず沢山の人が徘徊している異様な場所で、そこにいたのはチカーノ(メキシコ系)や黒人で、白人は一人もいなかった。

また、たまたま通ってしまった道が丁度ギャングの縄張りの境目になっていたらしく、道を挟んで右側にクリップス(チームカラー青)、左側にブラッズ(チームカラー赤)が陣取っており、殺されるのではないかと生きた心地がしなかった事があるが、ギャングは全員黒人だった。

 

当時私が付き合っていた女性はアフリカ系アメリカ人

一緒に行動していたグループは黒人系で、グループで唯一の日本人だった私は「Asian skin with Black heart」と言われていた(黒人の心を持ったアジア人)

 

そんな黒人コミュニティにいた私でも、治安の悪い地域で見た黒人は怖かったし、

黒人に対して偏見もあると思う。

 

カリフォルニアで誤認逮捕されて収監されたことがあるのだが、留置場では諸手続きを待つ間、「Classification」という部屋に入れられて、白人と黒人で部屋が分けられていた。

 

人種で分けてはいるものの、別に白人も黒人も扱いが変わるわけではなく、今回無くなってしまった人のように地面に押さえつけられて叫び続ける白人もいた。

 

私は唯一アジア系で、有色人種が関係しているかはわからないが、黒人の部屋に振り分けられた。

普段黒人コミュニティに身を置いていた私ですら、自分が知らない黒人に囲まれている時は恐怖を感じ、白人の房に移してくれと思っていた。

全員に当てはまるわけではないと頭で理解しつつも、血液型でA型はこう、B型はこうと偏見で人をジャッジしてしまうように、アメリカでも黒人は怖い、黒人は十分な権利が無い、黒人は差別されてかわいそう、黒人は・・・とひとくくりで偏見を持ってしまう事がある。

 

偏見を持たれた側は、「俺が不当な扱いを受けていると感じているのは、自分が黒人だからだ」と、人種を理由にした差別と感じてしまうかもしれない。

 

此度の事件は亡くなってしまった方が黒人だったが、被害者は白人にもなりえたと思う。

ただ、黒人だから不当な扱いを受けたという偏見が先行してしまうと、『警官による不適切な行動』が本質であったはずが、何かに先導されたように『人種差別問題』へと形を変えてしまう。

 

経験から感じた個人的な意見だが、どうしても人種による区別・分別は存在し、それによる偏見もあり、それが人種差別かというと、少し違うのかもしれない。

少なくとも自分の周りにいた黒人達は、不当な扱いを受けていなかったし(ように見えた)、他の人種も肌の色で差別をしたり、対応を変えたりしていなく、互いに違うということを尊重していた。(ように思う) 

 

田舎の地域になるとまた違うのかもしれないが・・・。

10年以上前の話。

アメリカのホテルで働く【課題】

アメリカの大学に通っていた頃、経営学の授業で、学期中に3回しか登校しないクラスがあった。

 

いわゆる職業実習のクラスで、職種を問わず、『自分の職場に新たな価値を付加する事』が課題。

 

初回にクラスの趣旨を説明され、2回目で中間報告、学期末で論文を提出してプレゼンテーションをする。

 

まずは初回の集まりから2週間以内に仕事を見つける必要があり、私はビーチに近いホテルで働く事にした。

 

メインの仕事はフロントデスクで接客。一番下っ端なので、ベッドメイキングを手伝ったり、荷物を運んだり、雑用をしながら、職場における問題点を探したり、新たな価値を探していく。

 

ホテルにはメキシコ料理のレストランがあり、休憩時間はビザがあるかも不明なメキシコ人達とまかないを一緒に食べていた。

まかないではレストランにあるメニューを1つ選んで注文できるのだが、アメリカのレストランメニューは文字だけで料理を説明されている事が普通で、写真が載っていない事が多い。なのでどんな料理かイメージしにくい。

加えてメキシコ料理なので、もっとわからず、「トスターダってなに?」「ディアブロチキンってどんな料理?」とシェフに質問しながらまかない料理をいただいていた。

 

そのホテルは日本向けにも広告を出していたので、日本人の宿泊客もちょこちょこ来ていたので、きっとお客様も、どんな料理かイメージが湧かず、不便を感じているのではないか。せっかくおいしいのに。

 

そう思い、全料理の写真を差し込んだ、日本語のレストランメニューを作成した。日本語が読めない外国人観光客も、写真があればきっと料理のイメージもつくだろう。

 

これがお客様に好評で、大学でも教授にそこそこ褒めてもらえた。

 

日本人である、という何でもない事が、職場では「唯一」だった。

当たり前と思っている事が、実は他の常識と違う点かもしれないし、違いこそ強みになるのかもしれない。

 

経営者になった今、自分がやっている事はきっとアメリカでの経験が地盤になっていると思う。

鬱病と診断された日

私は精神科に行き、「鬱病」と診断された事がある。

 

当時20歳の私は、夜の街を徘徊するチンピラ、今でいう半グレだった。

しかし、ナメられたら終わりが通じるのは10代だけ。

同級生が進学や就職をして頑張っている中、ぬぐえない劣等感。

スクールカーストの頂点だと思っていた自分は、高校を出たら単なる無職で、社会のピラミッドでは最下層だと気づいてしまった。

 

自分は何をやっているのか、どうしてこうなったと自問自答を続けた結果、ある日突然、心が思考を放棄した瞬間を感じた。

 

「あ、ダメだ・・・。」

 

途端に体がズシっと重くなり、動けないというか、動きたくなくなった。

人と関わる事を拒み、家からほとんど出れなくなってしまった。

 

当時の私は甘えているだけで、社会的責任も無ければプレッシャーもない。

しかしその時は、自分は何か計り知れないプレッシャーを感じすぎて心が病んでしまったんだろうと思う事にした。

 

心の病気だから仕方ないんだ。

そう思い、鬱病の診断が欲しくて心のカウンセラーと話をする事にした。

 

とにかく自分は人よりつらいんだと訴える、何もない、甘えてるだけのクズ男に対し、カウンセラーは否定もせず、「うん、うん」と話をきき、最後にこう言った。

 

「鬱ですね。1人で抱えて、つらかったね。」

 

本当に鬱病の人は、わかってもらえた事、共感してくれた事に嬉し涙を流すらしい。

しかし私はこう思った。口に出して言ったかもしれない。

 

「テメェに何がわかんだこのハゲ!」

 

マニュアル通りに寄り添っておけばいいと思ってんのか。

お前が理解できるような浅い次元で悩んでねぇんだよこっちは。

 

ヒネクレて謙虚さも無かった私は、カウンセラーの理解に対して怒りをぶつけたのだ。

鬱病と診断されたその日、久しぶりにずっとオフだった携帯の電源を入れた。

「生きてるか?」というメールが届き続けた。

死亡説が流れていたようで、一件一件に「大丈夫」と返信し、次の日から外に出るようになった。

 

今になって思うと心の病でもなんでもなく、単なる甘えだったと思う。

鬱病と診断され、その日に鬱を克服した話。

再会、変わらない仲間と変わった私

中学の同級生が亡くなり、明日が通夜らしい。そんな訃報をきいたのは、私が26歳の頃。もう10年近く前だ。

 

中学時代、夜中の公園で友人と集まってタバコをふかし、着地点のない話をしていた。周りからは不良と蔑まれていたかも知れないが、自分たちの中ではキラキラしていた青春。そんな時代を同じグループで共にした友人だった。

 

私はアメリカに留学し、いつしかグループとも疎遠になり、彼と最後いつ会ったのかも思い出せない。

 

通夜で久しぶりに再会した動かない彼の首には和彫りの入れ墨が入っていた。

ヒソヒソと、「薬やってたらしいよ」と声が聞こえた。きっと彼は「不良」と呼ばれたまま大人になったんだろう。

 

通夜をキッカケというのも悲しい話だが、かつての仲間たちと集まって久しぶりに話をした。亡くなった友人を楽しく『俺達流』で送ろうと、場所を変えて飲みながら話す。

 

酔っぱらってキャバクラで暴れまわった話、先輩の話、生意気な奴を追いかけた話、そういえば中学時代も夜中まで公園でタバコをふかして、こんなバカ話をずっとして、腹が痛くなるまで笑ったっけ。

 

別々の道を進んだ友達が集まって、昔と変わらない話で盛り上がる。そんな美しい場面を思い浮かべる歌やドラマのシーンがよくある。

変わらない仲間、変わらないバカ話、ただ一つ変わったのは、自分が無理をして引きつった笑顔をしていた事。

 

「かわいそうだなサラリーマンって。」

「毎日死んだような目して満員電車乗ってんだろ。俺電車無理だわ。」

「俺はムカつくと上司でも殴っちゃうから、人の下で働くのは無理だわ。」

「いつかは自分の店もちてーんだよな。」

 

そんな言葉をぎこちない笑顔できいていた。

確かに俺はサラリーマンで、毎日満員電車はきついよ。お前らの言う通り、上司や取引先に頭下げてばっかりで、ぶん殴りたいほど罵倒されても笑顔を作ってるよ。

 

でもさ、俺は海外の大学を卒業して、上場企業に就職して、一般的には成功者に見えるはずなんだ。

悔しいけど頭下げながら、皆の期待に応えたいから頑張ってるんだよ。

 

お前らは何もしないで夢ばっか語ってるけどさ、スキルも無いやつが独立して何ができんだよ。経営数字見れんのかよ。店を出すなら資金繰りや具体的な計画は立ててんのかよ。

 

久しぶりの地元の仲間たちは、今もあの頃のまま色あせない。1つ上の先輩に頭を下げ、1つ下の後輩に頭を下げさせる。そんな中学時代と変わらない小さな社会に、私の居場所はもうなかった。

 

居酒屋でタバコの匂いがついた喪服をクリーニングに出した。夜の空に吹き出すタバコの煙が好きだった。タバコをやめてからは、服につく煙の匂いが嫌いになった。変わらない仲間。変わった私。特に誰が悪いとかはないが、そこにキラキラしたままの絆などない事は確かだった。

 

その後、中学時代のかつての仲間とは10年近く会っていない。

街のチンピラがバイリンガルになるまで③

多くの留学生が英語を話せないまま帰国するなか、最も英語力が低い所からスタートした私がバイリンガルになれたのは何故か。

 

いくつか理由がある。

 

① 日本人の友達ができなかった

留学生は少なからず、『日本語を喋らないぞ、日本人とつるまないぞ』といった意識を持って留学すると思う。だが、自然と日本人同士で集まってしまう傾向がある。私の場合は当時チンピラと自覚しているように外見が威圧的で、日本人が寄ってこなかった。そして、自分のコミュニケーション力の低さも相まって、日本人の友達ができず、日本語を話す機会がほとんどなかった。『夢を英語でみる』ことに時間はかからなかった。

 

② ホームステイ先に複数の留学生がいた

留学初期、私は業者に斡旋されるままホームステイに入った。ホストファザーが1名で、他にブラジルやスペインなど、4人の留学生が一緒に住んでいた。食卓を共にする事もなく、温かい家庭で夕食を食べて・・・など、イメージ通りのホームステイではなかった。ただ、一緒に住んでいる留学生達は同じ学校に通っていたので、一緒に学校に行くし、喫煙所でタバコを吸っていると、ルームメイトが声をかけてきて友達を紹介してくれたりするのだ。日本人の友達はできなかったが、自然と別の国の人とつるむようになった。

 

③ 外国人の彼女ができた

アメリカで、日本人女性はとにかくモテた。理由はわからない。

対して、日本人男性はとにかくモテない。当時はクールジャパンなんて言葉もないし、外見も見劣りし、英語のコミュニケーションも拙い日本人と付き合う利点がないからだ。ただ好みは千差万別で、アジア人が好きなのか、英語ができない事に母性を感じるのかは知らないが、たまたま親しくなったアメリカ人女性がいた。日本人留学生同士でカップルになっている人達もいたが、アメリカで過ごす時間は同じでも、一緒にいた人と英語で話すか、日本語で話すかの違いで差がついた事は明らかだ。一見頭が悪そうだが英語をペラペラ喋るコミュニケーションモンスター(主に女子)は、基本この③のパターンだ。

 

結論、当たり前だがとにかく英語を話していたのだ。

留学をすれば自分を追い込めるわけではなく、留学中の時間の使い方で差が出る。

だからこそ英語を話す=英語力の伸びにつながると信じているが、留学初期にまったく英語を話せなかった私が、どのようにスピーキング力を上げていったか。

また別の機会で書いていこうと思う。

 

街のチンピラがバイリンガルになるまで②

英語を話せるようになるには、どれくらいかかるの?

 

センスだったり、初期値がそれぞれ異なるため、明確な回答はなく、人による。

個人的な経験として、私は実感するまでにスピーキングに4ヶ月、リスニングに2年かかった。

アメリカという、英語環境で生活した上で、それだけかかった。

 

ではアメリカなど、英語圏に生活の場を移せばバイリンガルになれるのか。

回答としては、これもやはり『人による』になってしまうのだ。

 

先述だが、私と共に留学生として渡米した30人の日本人グループがいた。

その多くは、『4年以上アメリカに滞在し、大学を卒業した者』も含めて、英語が拙いまま日本へ帰国している。

 

アメリカに身を置きながら日本人のコミュニティーに浸かり、日本語で生活をしていたからだ。

 

私が語学学校に在籍しているとき、最下層から1年足らずで最高レベルまで飛び級できたのは、とにかく自分の意思を伝えようとスピーキングに努力を費やしたからだと思う。

 

アメリカでは毎年世界中から多くの人が出入りしている。

つまり留学生は珍しくもなんともなく、「言葉も話せないけど知らない場所で頑張っています!」という人は、当時の日本ではチヤホヤ助けてもらえる対象だったかもしれないが、アメリカでは単純に会話すらできない奴なのだ。

 

 

そして、言葉ができないというだけでナゼか子ども扱いされるし、ナメられる。

気の荒かった私は、それが気にくわなかった。

だから、「お前の言ってる事はわかんねーけど俺の言う事は伝えきるぞ」という姿勢で、とにかく何でも止まらず喋る。相手の英語は理解できずとも、自分の意思が伝わったと実感するまで「わかったか?」と相手に言い続けた。文法なんてめちゃくちゃだ。単語が出てこなくて考えている間も、「つまり~、あの~、もう一度言うけど~」など、意味もなく喋り続けるように努力した。

 

常に思っていたのは、「俺より英語ができるだけのクセに人として俺をナメるな」だ。

 

長期留学をしながら英語が身につかない人もいた。私はロクに文法なんて勉強していないが英語が話せると自分で言い切るし、TOEICスコアも900は超えている。

 

どうやったら英語ができるようになるの?という広い質問をされる事が多い。

色んな答えがあると思うが、私はとにかくスピーキングを頑張ったら英語力が伸びたよ。と回答している。

街のチンピラがバイリンガルになるまで①

私が20代に差し掛かる頃、インターネットが普及して情報を得やすくなったり、円高だったりで、敷居が高かった留学がとても身近になった。

 

私もネットで調べた留学エージェントを介し、30人くらいの日本人グループと渡米し、アメリカの語学学校に入学したのだった。

 

語学学校のクラスは英語のレベルで6段階に分けられる。共に入学した30人のグループは、みんな中下層のレベル2~4に振り分けられた。

 

「前から在籍してる日本人が言ってたんだけど、実際の1番下はレベル2で、レベル1は存在しないらしいよ。あなたが1番下じゃないよって安心させるために、1があるように見せかけてるんだって。」

「なんだそれ都市伝説かよ。」

 

そんな会話が聞こえてきた。

 

私のレベルは1だった。

恥ずかしかったし、ショックだった。

 

クラスメートは10名程度。つまり200名ほど在籍していた語学学校のワースト10だ。

ほとんどが中東系。ベトナム人が少々。日本人は私だけ。

高校は出てるのでアルファベットはわかる、自己紹介程度の単文はできる。そんな感じの人が集まるクラス。

 

全員レベルが低すぎるため、クラスメート同士で英語のコミュニケーションがまったく取れない、笑うしかない状況。

 

そんな語学学校で1年近くを過ごし、共に渡米した日本人グループは6段階中レベル3~5に上がっていた。

 

私は学内最高のレベル6にいた。

 

30人全員をぶち抜いて飛び級していたのだった。